わたし的「童謡のつくり方」②

大中 恩

『ろばの会』
こどもの歌を作るようになったのは、昭利30年、中田喜直さんに作曲家5人の『ろばの会』結成に誘われたからです。その頃は詩人が作曲家に呼びかけて歌を作る形が主流でしたが、中田さんが「作曲家から詩人に呼びかけて作ろう」とおっしゃって「それはいい!」と思いました。『ろばの会』の会合は、主に僕が住んでた赤坂の家に、多い時で詩人を含め16、7人 が月に一度は集まって、 毎回最低2、 3 時間はやってました。 詩についての意見を交わすこともあるし、5人の作曲家だけで集まる時は、いただいた詩を5人で 取り合うの(笑)。で、複数が書くことになったら次の会で両方演奏して「おまえのダメだ」「こっちがいい」って話したり、「ここはこう」って直されたり。「ここ1小節足りねえんだろう」とか(笑)、けっこう巌しいことも言い合いましたね。そうした活動に共鳴してくれたかたにキングレコードの長田暁二さんがいました。彼のアイデアで、ステレオの特性を活かした、音がこっち(のスピーカー)から こっちへ移っていく歌も作ったし。いろんな動物をテーマに、ベースは象、フルートは小鳥というような楽器の使い方を話の中に盛り込んだ『チューちゃんが動物園にいったお話』というLPも作ったし. . .いろいろやらせてもらいました。

 『サッちゃん』誕生
『ろばの会』に共鳴してくれた、もうひとりの恩人がNHKにいらした岡弘道さんです。 NHKの『歌のおばさん』『歌のおじさん』『歌のおねえさん』、 一連の番組でいろんな曲を取り上げてくれました。その『歌のおばさん」の松田トシさんの10周年記念の会に『ろばの会』として曲を贈ることになり、その時に、朝日放送でこどもの歌作りに携わっていたイトコの阪田寛夫に書いてもらったのが 「サッちゃん」なんだ。
もう、パッと詩を見たときに「おお、いい詩だなあ。じゃ、これ作ってやろう」 って僕は思い、曲ができて聞かせたら阪田は「初めて聞いた曲と思えない」って言ったんだ。「よくある曲って意味じゃなく(個性的なのに懐かしい印象がある※)」って言い訳してたけど(笑)。
『サッちゃん』はいわゆる "ヨナ抜き " のファとシを抜いた日本的な音階でできて いて、阪田は音楽好きだからヨナ抜きを意識したのかと訊いて来たことがある。でも僕にそんなつもりはまったくなくて、 詩を読んで感じたままをメロディーにしたと返したら「(阪田氏の口調を真似て訥々と)ほぉ. . .そう思って作ったのかと思ってた」(笑)って言ってたけどね。

 男の子の歌を作りたかった
阪田とは『おなかのへるうた』のやんちゃな言葉づかいの歌もよく作った。当時の童謡はお人形さんがどうでって内容の"童謡唱歌ふう"が多く、男の子の歌は軍歌しかなかった。それで『ろばの会』でも男の子が歌う歌を作ろうとよく話してたんだけど、阪田はその手の詩は「あんた作れよ」って僕にくれたんだ。ああいう詩で あまり積極的に作ろうという作曲家はいなかった気もするけど(笑)。. . .やっばり日本人て真面目すぎるんじゃないかな。で、もっともらしい歌をもっともらしく歌ってもっともらしく聞く、みたいのは僕はいやなんだな(笑)。そういう日本人像からは脱却したい。もともとそんなタチだから、 阪田が変わった詩を持ってきても、曲をつける苦労なんてなかったんですよ(笑)。

 作曲家でありつづけること
『ろばの会』の最後の頃は、中田さんは「こどもの歌に何かを残したグループだから解散はしないでおこう」って言ってらしたんだけど、僕は「みんなで曲作りをしてないならやめたほうが」って生意気言って困らせてました。僕自身、作曲ができなくなったら「私は作曲家でした」って過去形で言おうと思うしね。
———実は平成16年に結婚しまして、この間、あるテレビに二人で出たときに彼女が、僕の作曲の様子について「書いてる時がいちばん楽しそうです」って、これはいいこと言ってくれたと思った(笑)。つまり、書いてる時っていうのは僕、得意なんですよ。「俺は作曲家である」と胸を張れる気がするから。
. . .う—ん、ずっと作曲を続けていく秘訣ですか?恋をすること、かなあ(笑)。本当にそうだと思いますよ(笑)。
※( )内は阪田寛夫「童謡でてこい」より抄出

 

取材/山岡その子
取材・構成/桑原永江

 

日本童謡協会会報第138200611日発行