2023年から始まった童謡サロンでは、毎回、会員の貴重なお話を伺っています。第4回目のサロンに登場いただいたのは、サトウハチローに師事し、自身も多くの名作童謡の詩を手がけてこられた宮中雲子さんです。サトウハチローとのまるで宝石箱のような思い出話を、どうぞお楽しみください。

構成 山本学、桑原永江

 サトウハチロー先生は、雨が好きな人でした。雨の中を傘もささないで歩き回ったりするんですね。昨日は雨が降っていましたが、今日(2024年5月20日)は晴れてくれまして、いろいろ荷物を持ってこなくてはいけなかったので助かりました(笑)。

 さて、サトウハチローが何をしたか、何を残したかというのが求められたテーマだったのですが、皆さんご存じのとおりサトウハチローはたくさん童謡を残しました。多くの仕事をして、沢山のものを残しました。1903年5月23日に東京の牛込(現在の新宿区)で生まれております。私は5月19日生まれなので、いつも木曜会(戦後、サトウハチローが主宰した詩や童謡の勉強会)でサトウ先生のお誕生会はあっても私はその陰に隠れてしまっていました。

 サトウ先生には、歌が大変上手な、貴美子さんという4歳年上のお姉さんがいました。そのお姉さんから、ピアノの前に座らされて、ピアノをやっていたそうです。ところがこのお姉さんが若くして病気で亡くなってしまうんですね。

 そうしますと、貴美子を可愛がっていた父親の紅緑さんは、だんだん家に帰らなくなってくるんですね。紅緑さんはずっと新聞記者をしていましたが、喧嘩っぱやい一面があり、あちこち新聞社を変えた末、ハチローが生まれた頃には職を失って小石川の長屋に住んでいました。それで、俳句の添削指導をして、暮らしを立てていたのです。それはどういうことかというと、新聞記者時代の上司に正岡子規がいて、正岡子規という人は誰に対しても「俳句をやれ、俳句をやれ」って言う人で、紅緑さんもそこで勉強していたんですね。松山にある、正岡子規記念館にも佐藤紅緑さんは弟子として名前が出ております。

  俳句の弟子に新派の役者さんがいたことから、紅緑さんは戯曲を書くようになり、それが当たっちゃうんですね。それでだんだん有名になって、新聞小説を書いたり、劇団の座付き作者になったりしていきました。愛子さん(作家の佐藤愛子、サトウハチローの異母妹)のお母さんの三笠万里子さんは劇団にいた人なんですね。

 紅緑さんは有名になったことで、茗荷谷に大きな家を買っていました。三笠さんに夢中になっていたことから、サトウハチローのお母さんである、はるさんとハチローたち子供はそこに取り残されてしまいます。その家は広く、玄関から門の間でキャッチボールができたそうです。ハチローはよくそこで、弟とキャッチボールをして遊んでいたということですね。

 ところが別居するときに紅緑さんは、長男であるハチローを恋人(三笠万里子さん)のところへ連れて行くっていうんですね。ハチローはその辺からぐれるというか、自分の家を失って、悪いことをするようになり、警察に留置などされまして、ついに小笠原の感化院(現在の児童自立支援施設)に行かされることになりました。