サトウ先生は23歳の時、1926年に処女詩集「爪色の雨」を出版したことによって、仕事がたくさん来るようになって忙しくなりました。その頃、父親の紅緑さんが「麗人」という映画の台本を書くんですね。そこで、「麗人」の主題歌の「麗人の唄」を誰に書かせようかということになったんですね。最初は、コロムビアから西條八十さんのところに話がいったようなんですけども、そこで、「紅緑さんには、息子(=サトウハチロー)がいるじゃないか」って言われたようです。そしてサトウハチローが作った「麗人の唄」が「知ってしまえばそれまでよ 知らないうちが花なのよ」という歌なんですけども、あれがものすごくヒットしてしまうんですね。
サトウ先生は、その頃、ポリドールの専属でした。ただ、立教中学の頃、野球部に籍を置いていたので、作家というよりはむしろ野球選手として雇われているんですね。サトウ先生は、キャッチャーなもんですから、重宝されていろんなところで野球で雇われるんですけども、なんでポリドールの人間が、コロムビアからレコードを出して、ヒットが出るんだって文句が出たそうなんです(笑)。その後、出たものはしょうがない。うちの方でも、サトウハチローに歌詞を書かせようっていうんで、毎月毎月、流行歌の歌詞を書かせるようになりました。そして結局ポリドールの専属になるんですね。
その後、少年少女小説、ユーモア小説なんかもたくさん書きまして、とにかく一生懸命仕事をする人なんです。そして、歌謡曲をどんどん書いている頃にも童謡を書き、小説家としても学習雑誌や講談社とかで書いたものも、とてもヒットが出るんですね。
1926年発行の処女詩集『爪色の雨』。写真はサトウハチローが所有していたものです。
そして、最初の奥さんには3人の子供が出来ているのですけど、その後、他に恋人とかできちゃいまして、それで2番目の奥さん、加藤芳江(芸名:歌川るり子)さんという人が、その3人の子供を引き取って育てることになります。その頃は上野桜木町に家を持っていました。そこで、童謡「うれしいひなまつり」(1936年)を書いております。同じころ「二人は若い(玉川映二名義)」とか「若しも月給が上がったら(山野三郎名義)」とかいっぱい書いておりますけども、いろんな名前で書いていまして、この人ぐらいいろんなペンネームで書いている人はいないと思うんですね。例えば、倉造りの家を借りて住んでいるので「倉仲佳人(倉の中の住人をもじったもの)」とかね、そういうのも何でも名前にしちゃって書いていたそうです。他にも、レコード会社の部長さんの名前をそのままペンネームにしていたこともあり、そのペンネームでの作品の印税をもらいに行った時には、その部長さんのハンコを借りて押印し、印税が支払われたなどのエピソードもあります。むちゃくちゃばっかりのペンネームですね(笑)。
そして、ポリドールの社長さんが亡くなると1年間お礼奉公をした後、35歳の時にコロムビアレコードへ移ります。コロムビアで服部良一と一緒に「小雨の丘」とか、仁木他喜雄の「めんこい仔馬」とか、それから古賀政男作曲の「勝利の日まで」、これは戦争中の歌ですね。このようにいろいろなことをして暮らしていました。「君に忠、親に孝」という言葉があります。ハチローは、「君に忠」は好きで、天皇陛下を敬愛していましたけど、「親に孝」の方は願い下げと言っていたような人でした。そんなハチローでしたから第二次世界大戦をはさんで、終戦と同時に何していいか分からなくなっちゃうんですね。そして呆然としているところに東京タイムズを創刊した岡村二一という人が、ハチローに何か書かないかって言ってくれるんですね。この人も詩人仲間です。
2024年5月20日に開催された童謡サロンのひとこま。写真は左から大和田りつこ氏、新沢としひこ氏、宮中雲子氏、渡辺恵美子氏、大竹典子氏。