だから、さあ「アイアイ」みたいな歌を作らなきゃなって思い、それからはそういう視点で詞を見るようになりました。その視点でさっきの「うたえバンバン」の、♪口を大きく 開けまして うたってごらん アイアイアイ そのうたぐんぐん 広がって 誰かの心と こんにちは―—って詞を見る。さあ、これいい“詩”でしょうか? 詩集で読む詩ではないんだけど、歌になったらものすごくいいじゃない! サビの♪うたうたえ うたうたえ うたえバンバンバンバンバン~ってね。
これ、ただ文字で読んでたら面白みが全然ない。でも、阪田寛夫さんは全部わかった上で確信犯的に書いてるのがすごいって思ったんですよ。――阪田さんは翻訳をたくさんしていて、外国の曲に日本語の詩をつけるってことをたくさんやってらっしゃいます。例えば「ともだち賛歌」。♪タッタラッタ タッタラッタ タッタタッタタ~。♪ゴンベさんの赤ちゃんが風邪ひいた~というあのメロディに後から詩を書いて、♪ひとりとひとりが うでくめば たちまちだれもが なかよしさ やあやあみなさん こんにちは みんなで あくしゅ~とした。これ、詩集用に阪田さんが詩を書いてたら、こうは書かないだろうなと思う。絶対に♪タッタラッタ タッタタッタ タッタタッタタ~ってメロディが先にあって、このメロディにどんな言葉をのせたら気持ちがいいかな楽しいかなってことに徹して書いてる。
「たちまちだれでも なかよしさ」って、あまり文学性がないというか、阪田さんならばもっと詩的な文学みたいに書くことはいくらでもできるはずなのに、この曲に合わせて、わざとこう書いている。そういうところがすごく面白い。
阪田さんは小説で芥川賞を取ったり、読む詩用の詩も書いて、プラス作詞もして訳詞もしてということをたくさんやっていて、その中で、子どもの歌の作詞はこういうふうにできるということを職業作家的に体現してくれている。
また阪田さんはポップスの曲の形と言葉の乗り方もよくわかっていて、だから中川さんと僕が作った歌を聞いて、これは曲先なのかな?って思ったっていうのがとても阪田さんらしいなって後から思いました。
そこで「サッちゃん」という詩の話になります。
阪田さんの「サッちゃん」はとんでもない作品だったと思います。
この「サッちゃん」という詩――「サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね だけど ちっちゃいから じぶんのこと サッちゃんって よぶんだよ おかしいな サッちゃん」。この詩は朗読した方がいいでしょうか? それとも歌になった方がいいでしょうか?
この詩は、絶対に歌になった方がいいと思います。朗読用ということでもでもない。
「サッちゃん」という詩は、まるで子どものつぶやきの散文みたいにできていて、だから詩集で読むタイプの詩ほど文学性の高さや言葉の緊張感はなく、もっと平たく子どもがそのまましゃべってるみたいになっているけれど、例えば「どんぐりころころ」の歌みたいに調子を揃えたりはちっともしてなくて、「サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね だけど ちっちゃいから…」って言ってる。すっごく不思議な詩なんだけど、この詩に曲がつくと、そうしたらちゃんとその1番の感じで、2番では「サッちゃんはね バナナがだいすき ほんとだよ」って言って。3番では「サッちゃんがね とおくへ いっちゃうって ほんとかな」って、全部その子どものつぶやきの、一見定型詩じゃないように3番まで出来ていて、でも3番まで歌って全然 不自然じゃない。
これは作曲の大中恩さんが、この詩に変にポップス調で揃えた曲じゃなくて、この言葉そのまま――(歌って)♪サッちゃんはね サチコって いうんだ ほんとはね だけど ちっちゃいから じぶんのこと サッちゃんって よぶんだよ おかしいな サッちゃん――1回も同じメロディの繰り返しがない。ポップスの方法ではなく、日本語のまんまを歌曲にしていく方式で「サッちゃん」は作られていて、それなのに2番も3番もちゃんと歌えるっていう、もう奇跡のような作品で、何これって思った。…逆にこの歌は目指しませんでしたね。こんなことはできないと思って。これは日本の童謡の歴史の中で、“日本語の流れをそのまま歌曲のように作っていき、かつ、それが小さな子でも歌える歌にした”歌の最高峰、童謡のブームの頂点にいるものだと僕は思います。 そして、「サッちゃん」以降、そうした歌が作られることが減ってゆき、新しいこどもの歌はどんどんポップス寄りになっていったのではないか。それはけっして悪いことだけじゃないと思うんです。例えば中川ひろたかさんの曲も、坂田おさむさんの歌も、ポップスの様式を取り入れて子どもに親しまれる歌を作るようになってきたけれども、「サッちゃん」みたいな形式の歌は、本当になかなかできない、奇跡の作品なのかもしれません。