昭和44(1969)年、66歳の時に日本童謡協会ができています。でもこの時、日本童謡協会を作るのは実際は2回目だったんです。ハチローはもっと早く童謡協会を作りたかったんですね。現在の童謡協会以前にも、野上、藤田と3人で童謡協会を作るんですけど、その時の唯一の活動といってもいいのが、森永製菓株式会社をスポンサーにして上野の動物園に動物の檻に詩を掲げることでした(編集部:サトウハチローの「象のシワ」などが該当します)。ただ続かなかったのはどうしてかというと、事務方がいないんですね。3人ともみんな事務はできない人たちでした。現在の童謡協会を作るときにはその経験が大きく活かされました。

 サトウハチローはその後、昭和45(1970)年に日本作詞家協会会長、昭和46(1971)年に日本音楽著作権協会の会長を務めています。昭和48(1973)年に勲三等紫綬褒章を受章しましたが、受章式の日には聖路加病院に入院していました。奥さんは着物も作って一緒に行くつもりだったけど、パパが行かないなら私も行かないと言って、ハチローの傍に付いていたのです。実は、ちょうど授章式の最中にハチローは息をひきとるんですね。それがサトウハチローの一生でした。

 サトウ先生は童謡書きであることが好きで、西條八十を師に選んだ時から、抒情詩と童謡を書きたかった人でした。しかし、歌謡曲書きのレッテルを貼られてしまったのは、それほど多く歌謡曲は書いていないのに、いくつかの歌謡曲がヒットしたためだと。それゆえ、純粋詩や抒情詩の世界からはちょっとひどい目で見られたこともあったそうです。でも、サトウ先生はたくさんの童謡を書き続け、第二次世界大戦後に童謡ブームをまき起こしました。それを本人は大変誇りに思っていたようです。

 最後に、サトウ先生の童謡宣言をここに掲げます。

サトウハチロー

1903(明治36)年5月23日-1973(昭和48)年11月13日。
作家・佐藤紅緑の長男として東京 牛込に生まれる。父の弟子・福士幸次郎の紹介で西條八十の門弟となり、1926(大正15)年処女詩集『爪色の雨』を出版。作詩、脚本家、映画プロデューサーなど多彩な分野で活躍。1953(昭和28)年の童謡集『叱られ坊主』で、第4回芸術選奨文部大臣賞受賞。 1961(昭和36)年、詩集『おかあさん』出版。1962(昭和37)年「ちいさい秋みつけた」で日本レコード大賞童謡賞。
1969(昭和44)年、日本童謡協会を設立。初代会長に着任する。
1966(昭和41)年紫綬褒章、1973(昭和48)年勲三等瑞宝章を受章。
月刊誌『木曜手帖』を1957(昭和32)年に創刊し、吉岡治、若谷和子、宮中雲子、宮田滋子ら多くの詩人を育てた。

宮中雲子

詩人。1935年、愛媛県西宇和郡三瓶町(現在の西予市)生まれ。東京学芸大学国語科卒業。大学在学中の1957年よりサトウハチローに師事し、1971年 童謡集『七枚のトランプ』で第1回日本童謡賞詩集賞受賞。1996年 第8回サトウハチロー賞。2016年 童謡集『夢を描いて』で第46回日本童謡賞受賞。
2002年から2023年まで日本童謡協会の副会長を務め、また、故郷の三瓶町(現・西予市)にて1998年から2023年まで宮中雲子音楽祭を開催するなど、童謡の普及発展に長く貢献。
著書に、詩集『手と手のうた』『どんな音がするでしょか』などのほか、『はじめて童謡を書く』やサトウハチローの詩と人生を追った『うたうヒポポタマス』などがある。


1971年、サトウハチロー(写真中央)のもと「主婦の友通信教室」で詩の講師を務め、その打ち合わせ中の宮中氏(写真右)。写真左は、同じく講師を務めた詩人の若谷和子氏。