そして、54歳の時、月刊誌『木曜手帖』を創刊いたしました。私は東京学芸大学に入って小学校の先生になる勉強をしていたんですけど、指導教官がサトウ先生と仲良かったんですね。指導教官は夫婦で木曜会に参加して詩を書いていました。初めは『木曜手帖』といっても知られていないから、人集めが大変だったんです。最初の弟子はサトウ先生の友人から、娘を弟子にしてくれと言われて入って来たそうです。その後、一人、二人と増えてきました。吉岡治さんもその頃入ってきた人で、初期のお弟子さんなんですね。吉岡さんはガリ版刷りの仕事をしていた人で、最初、木曜手帖は吉岡さんによるガリ版刷りで作られていました。

 サトウ先生は、木曜手帖を始めるにあたって、まっさらな人がいいとおっしゃっていました。なまじ詩が書けると、それまでについた癖を取っ払ってもらうのは難しいということらしいです。だから、私みたいに詩ってなんでしょうと、全然興味なかった人が入ってきちゃったんですけどね。

 最初は、神田小学校の音楽室を借りて始めました。歌手の松田トシさんをお呼びしたり、サトウ先生の新曲を必ず毎回歌うんですね。私もみんなも新しい歌を毎回覚えて歌うのが大変楽しかったものです。私が入る前にも、サトウ先生のところにはお弟子さんが来ていたんですけど、その時のガリ版刷りの木曜手帖は、お弟子さんが作ったものと、それをハチロー先生が補作したものが上下に両方、全部の詩に出ていました。それが6号か7号まで続いていました。サトウ先生が作った森永製菓株式会社のCMソングで「エンゼルはいつでも」というのがありました。そのようなつながりで、『木曜手帖』に広告をいただいて活動を継続していました。最初は啓文堂で32ページの小冊子でした。啓文堂は、現在の日本童謡協会の年刊童謡詩集にもつながっています。

 木曜会は、『赤とんぼ』からのご縁で、サトウハチロー、野上彰、藤田圭雄の3人によって始められました。活版で同人誌を出すのがサトウ先生の希望であり憧れだったわけですね。ただ、それまでの同人誌はたいてい3号でなくなってしまう。どうしてかというと集まったお金でみんな飲んだり、食べたりしてしまうからとのこと。だから木曜会では、絶対に木曜会のお金で飲まない、食べないと非常に厳しかったです。私は、木曜手帖を包んで送るための紐も、なにか贈り物をいただいたときのものを全部取っておいて、再利用していました。

 『木曜手帖』が始まった当初、童謡以外のものは持ってきてはいけなかったんです。しかし、何年か経っていくと、だんだん童謡以外のものを書く人が増えちゃって抵抗できなくなるんですけど。初めの頃は、サトウ先生は童謡以外のものは見ない。そして、会員の皆さんが作品を持ってくると、机の上に積み上げるんですね。サトウ先生が全部の作品を見て、いいのがあると「これいいね」、「この作品のここはいいね」って言うんです。でも箸にも棒にも掛からない作品はさっと横に避けてしまうんですね。それで何遍かのここはいいねっていう作品が木曜手帖に載っていました。大変厳しかったです。

インターネット木曜手帖
http://main.mokuyou-tetyou.jp/

1959年に第一集が発行された詩集『おかあさん』は、1962年に第二集、1963年に第三集を発行。三冊をひとつの箱におさめたセットはたちまち二百万部を突破した。