(東京タイムズの岡村に)頼まれたのは1回か2回だったはずなのが、ハチローは毎日書くって言い出すんですね。5000回くらい毎日毎日書くんですよ。それが「見たり聞いたりためしたり」というコラムの連載で、これが人気を博しました。「リンゴの唄」も同じ時期にヒットし、それから少年少女向けの雑誌『赤とんぼ』が創刊されて、毎号、童謡を書くんですね。藤田圭雄(たまお)先生はとてもサトウハチローを買っていらして、いろいろな方面にサトウを紹介してもくださり、ハチローはすごく感激、もう他のものは全部断って、童謡だけ書くって言い始めました。藤田先生は、そんなにたくさん原稿料を払えないよっておっしゃったそうです。なぜそういうことができたかっていうと、これまでに書いてきたユーモア小説なんかが売れに売れていたんですね。ハチロー夫人(房枝夫人)から聞いた話なんですけど、ユーモア小説など、以前、書いていたものがたくさん売れているんで、新円がいっぱい手に入ったんだそうです。ハチローの家にはそのお金が入っている一斗缶の入れ物が沢山あったそうです。ところが2番目の奥さんのるり子さんが亡くなるんです。昭和22年(1947年)、44歳で亡くなりました。るり子さんは当時、ハチローは、後に3度目の奥さんになる房枝(芸名:江川蘭子)さんとすでに付き合っているのをわかっているんですけども、子どもたちには、あの人を恨んじゃいけないと言って亡くなったそうです。
1946年に藤田圭雄、柳内達雄らが刊行した児童雑誌『赤とんぼ』。ハチローは第3号に「チップタップロンロン」、第5号には「母さんのウタ」を発表している。
46歳の時に、皇居で辰野隆さんとか徳川夢声さんと一緒に天皇陛下とお話をする企画に選ばれて参内しました。その時にタバコをお土産にくださったそうです。お父さんの紅緑さんは大層、タバコの好きな人で、そのタバコを持って行ったら、大変喜ばれたということでした。
その時期には、大ヒットした松竹映画「長崎の鐘」の主題歌、作曲は古関裕而さんが書いていて、他にもNHKのラジオドラマ「ジロリンタン物語」の放送があり、NHK「歌のおばさん」も始まって童謡が盛んになってきます。「ジロリンタン物語」は、お友達で洋画家の吉邨次郎さんという人がいて、その人がジロリンタンというあだ名だったのでそんな物語を書いていたんですね。サトウ先生は、ユーモア小説が売れてると「ユーモア小説を書くから、童謡も書かせろ」っていう人でした。大変な仕事量のなかでそういう努力をしてるんですね。ちょうどその頃、中田喜直先生との「かわいいかくれんぼ」もヒットしました。
1953年、50歳の時に、『歌のおばさん』、『少年少女』や『赤とんぼ』に書いた童謡を集めて『叱られ坊主』という一つの箱に詩集と曲集を入れた本を出すんですね。これは第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。その次の年にも『木のぼり小僧』という同じように詩集と曲集が組になっているものが出版されました(ただし詩のすべてに曲がついているわけではなくて半分くらいしかついていない)。
詩集+楽譜集『叱られ坊主』。写真はサトウハチローの所有していたもので、目次のページ(右写真)には、その作品をどんな媒体(映画、放送局、雑誌等)に提供したかのメモが書き込まれている。
そして、雑誌『アサヒグラフ』で「新童謡歳時記」という欄が始まりました。これも作曲付きで写真も掲載される大変立派なものでした。少し遅れて、文化放送で放送されました。現代のようにマルチ的に、詩を書いて、出版物に掲載され、それをラジオで放送する、そういうサイクルですね。
そして東京タイムズの連載が1000回とか2000回とか続いた時にご褒美に童謡祭を開催してもらうんですね。日比谷公会堂で大々的にそういうことをしていました。そして52歳、昭和30(1955)年ですけど、NHK特別番組『秋の祭典』のために「ちいさい秋みつけた」を書くんですね。これは歌謡曲の番組で、他の皆さんは歌謡曲をお書きになったそうです。その時、サトウハチローは、自分はもう「長崎の鐘」を書いた後は歌謡曲を書いてないんだけど、抒情詩でもよいかと尋ねたそうです。そうしてできた「ちいさい秋みつけた」は、童謡のようでありながら、難しい言葉がいっぱい入ってくる抒情歌になっています。だから、今でも子どもでも大人でも歌える歌として皆さんに愛されているんじゃないかと思います。