この頃、紅緑さんのお弟子さんで福士幸次郎っていう人がいたんです。この人は大変有名で立派な詩人なんですけども、一般的にはあまり知られていない人ですね。でも「鍛冶屋のぽかんさん」という詩はわかりやすいので、ぜひ読んでみてください。
その福士さんは紅緑さんの弟子で食客として一緒に暮らしていたんですけど、ハチローさんが一人で小笠原の感化院に行くのはかわいそうということで、一緒に行くんですね。その時にいろいろと詩の本や勉強の本も持って行って二人だけで暮らすのです。そこでハチローはいろいろ勉強したり、小笠原の美しい景色の中で過ごしているうちに、だんだん自分も詩を書こうかなという気持ちになったようです。
半年くらいで許されて小笠原から東京へ戻ってくるんですけども、その時には福士さんが田端の辺りに家を借りまして、ハチローと二人の暮らしをはじめるんです。お金は紅緑さんが出すんですけどね。それで、福士さんを慕う人たちによる詩塾が始まった頃、少年だったハチローも参加しました。そこで、福士は「ハッちゃんの詩は、僕では教えられない。童謡を書きたいのなら、北原白秋、野口雨情、西條八十、誰でも僕は知っているから紹介するよ」って言われるんですね。そしてハチローは、西條八十を選んだわけです。
サトウ先生はいつも西條八十の「王様の馬(鈴の音)」をいい詩だっておっしゃっていました。レハール(1870-1948オーストリア)の作曲(編集部注:中田羽後がレハールを参考に作曲したという説もある)なんですけどね。
15歳のハチローは、最初に詩を書き始めた頃から童謡を書きたいと言い、この西條八十の詩による「王様の馬」が流行っていた頃で、この歌が好きだから、自分は西條八十のところに行きたいと望んだそうです。
佐藤紅緑宅に寄寓した福士幸次郎(写真右)は、ハチロー(左)のよき理解者であるとともに、自身も詩壇で活躍。詩集に『太陽の子』『展望』がある。
西條八十(さいじょう やそ)
1892(明治25)-1970(昭和45)年。詩人、作詞家。象徴詩人として活動するかたわら、戦前から戦後・高度成長期まで、童謡・流行歌をはじめ幅広く作詞を手がけた。『赤い鳥』に数多の作品を発表し、童謡作品に「かなりや」「肩たたき」「毬と殿様」など、流行歌に「東京行進曲」「蘇州夜曲」「青い山脈」などがある。
サトウハチローのお母さんのはるさんは、紅緑さんとうまくいかなくなった後、仙台の実家へ帰ります。はるさんは、仙台の河北新報の社長の奥さんの妹なんですね。サトウ先生の下の2人の弟を連れて仙台へ帰り、48歳で亡くなるまで仙台で過ごすんですけども、亡くなった時に、サトウ先生は初めて、お母さんの詩を5編ほど書きますね。後にテレビの番組でお母さんの詩をいっぱい書くようになりましたけども、これが始まりだと思います。