ここで金子みすゞさんの話をしたいと思います。
金子みすゞさんという有名な詩人がいます。金子みすゞさんは作詞家ではありません。絶対に詩人だけど、子どもの歌を書く詩人。
この金子みすゞさんの作品はとんでもないものだと思いますが、金子みすゞさんの詩っていうのは“読む詩”なんです。「私が両手をひろげても、/お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、/地面を速くは走れない。」-。最後の「鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。」という言葉はもうみんなよく知っています。
ところが「みんなちがって みんないい」ってメロディが浮かぶ人はあんまりいない。この詩は素晴らしい詩なので、たくさんの作曲家やミュージシャンやアーティストがいっぱい曲をつけてきました。だけどこの詩はもう言葉だけできちんと成り立っているので、メロディが付かなくてもいいんですね。ある意味 作曲家泣かせというか――、だから金子みすゞさんは作詞家ではないんです。本当にね、朗読した方が伝わる。
もちろん歌曲になった時にいい感じだなという作品もたくさんあると思うんですけど、みんなが歌う歌として浸透していくことはなかなかない。それは、金子みすゞさんの詩が良すぎちゃうんですね、詩として。いい曲がつくためには、いい詩じゃなくちゃいけないと詩人も作詞家もみんな思うんです。だけど、いい詩ってなんだろうって思った時に、金子みすゞさんみたいに完成度の高い文学性の高い詩が、作詞としていい詩かというとそうでなくて。詩としてすごすぎて曲がつけにくい、作曲家が曲のつけようがないというか、作曲家の仕事が発揮しづらいというか、下手につけちゃうとこの詩を損ねちゃうってことになりかねないのですごく難しいという―。
金子みすゞさんってやっぱりとんでもなくて、金子みすゞさんほどのそういう人はなかなかいないですね。子どもの詩をたくさん書いてるかたでは、工藤直子さんや谷川俊太郎さんなんかも実はそうで、谷川さんの詩で、みんながすごくよく知ってる歌ってちょっとしかない。あんなすごい詩人なんだけど、それはやっぱり谷川さんが作詞家じゃなくて詩人だからなんですよね。工藤直子さんの詩も、「のはらうた」など、音が揃っていて曲がとてもつけやすいんですよ。僕もいっぱい曲をつけてます。けど工藤直子さんの詩も、言葉だけで本当はいいんですよね。だからみんなが知ってるような工藤直子さんの詩の歌ってないんです。詩集はあんなに売れてるのに、です。だからそういう人たちと出会うたびに、僕は作詞家なんだなって思ってます。
僕は作詞家として、曲をつけやすくする詞を書いていく、だけど内容があるねとか詞だけ読んでもなかなかいいねっていう線を狙っていきたいって思って詞を書いてきました。
言葉と言葉の緊張がすごくあるものは、文学的に研ぎ澄ましていって詩集の詩にすればいいんで、子どもたちが歌う歌はもう少し言葉と言葉の緊張感が少なくて、繰り返しがあったりして、曲がついたときに本当にいいねと言われるような、曲がついたときに完成することを見通しながら詞を書くようにしています。どこか書きすぎないというか、ここからは作曲家に任せるということを大事にする、そこが僕の特徴だなって思って書いてきました。
もちろん金子みすゞさんが悪いなんてことは全くなくてもう、超絶素晴らしいんですよ。金子みすゞがお手本!とされてる方たちもいっぱいいて、その作品がまたとてもいいんです。そういう詩が書けていいなと思ったりする。でも、そういう詩にいい曲がつかないというのは、やっぱり曲がつくような詩ではないからということはあるんですよね。
僕には、曲がつけやすい詞を書くという自負があって、だから“職業作家”とか“作詞屋さん”みたいに言われても全然構わない。その分歌われたり、作曲がしやすい詞を書くんだと、そういうことを作曲家から習ってきたんです。