【童謡碑・東京】
中村雨紅(1897~1972)は、明治30年2月6日、現・東京都八王子市上恩方町2089の宮尾神社の社務所で、宮司だった父高井丹吾と母シキの次男高井宮吉として生まれた。上恩方尋常小、恩方村報恩高等小、府立青山師範等に学び、大正5年、第二日暮里小(荒川区)の訓導となった。(同校に歌碑あり)。翌6年5月、叔母の中村家へ養子にいき、中村姓となる。(大正12年5月、縁組を解消し、高井姓に戻る)
大正7年3月、第三日暮里小へ転勤。(同校に歌碑あり)。この頃から童話を書き始める。8年、児童雑誌『金の船』に童話・童謡数編が入選し、野口雨情を知ることとなった。雨情の「雨」の1字をもらい、筆名を「雨紅」とする。そして、主として童謡を書くようになった。
12年4月、漢学者の娘本城千代子と結婚。
同年7月、文化楽社刊「文化楽譜―あたらしい童謡」(その1)に、「ほうほう螢」(田中敬一作曲)と「夕焼小焼」(草川 信作曲)の2編が掲載された。「夕焼小焼」の詩は大正8年、22歳のときに書かれたという。この譜本はわずか5曲を収めたもので、ピアノ購入者に無料で配布された。人の手に渡った13部ほどの楽譜から、歌い広められたのだった。レコード発売は、大正14、5年のころ。作曲の草川 信(1893~1948)は、現・長野市県町の出身。
雨紅は大正13年から2年間日大高等師範部国漢科に学んでおり、昭和元年から住んだ神奈川県厚木では、現・厚木東高校で教鞭を執った。
「夕焼小焼」の歌碑は全国に10数基あるが、雨紅の生家・宮尾神社境内の碑は、雨紅自筆で第1号。昭和31年9月10日に除幕された。
執筆・楠木しげお(「児童文芸」2014年12・1月号掲載)

夕焼小焼 写真

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