【童謡碑・栃木】
野口雨情(1882~1945)が没したのは、栃木県の現宇都宮市鶴田町である。昭和19年1月に、東京の吉祥寺から、一家9人で疎開していた。栃木県との地縁は、最初の妻ひろが、現さくら市の人だったからだ。
終焉の家は、こぢんまりした平屋だが、当時は広い農園があって、つる夫人と共に畑仕事にも精を出したそうだ。ところが、脳軟化症が悪化して、翌年1月に、62年8か月の生涯を閉じた。火葬場へ燃料の薪と共に運ぶ、粗末な柩には、菊水の紋の羽織がかけられた。野口家は、楠木正成の流れを汲む家系なのである。
鹿沼街道のバス停「羽黒下」で降りると、和菓子処「乙女屋」鶴田雨情店(道の南側)のすぐそばに、旧居(終焉の家)が保存されている。
道の北側に、「あの町この町」の詩碑(昭和33年4月27日建立)がある。
そして、旧居の裏山(羽黒山)の羽黒神社境内にも、「蜀(もろ)黍(こし)畑(ばたけ)」(お背戸の 親なし はね釣瓶……)の詩碑(昭和57年5月30日建立)がある。この詩は、作曲もされているが、雨情の読んで味わえる詩として、愛誦されている。
碑の童謡はどちらも、この地で生まれたわけではない。因みに、「あの町この町」の作曲者中山晋平(1887~1952)は、この歌を口ずさみながら、息を引き取ったそうだ。
余談だが、宇都宮市内で、「羽黒山」とか「羽黒神社」とか言うと、北の方の大きな「羽黒山」「羽黒山神社」の方を教えられてしまう。くれぐれも、「鶴田町」で尋ねて戴きたい。
執筆・楠木しげお